「女の子はいつも笑顔なのが素敵」
「女の子は気遣いで差をつけよう」
「女の子は周りを褒めてあげて」
こんなフレーズをよく見かけます。笑顔で気遣いができて、周りの人の素敵なポイントを気付けるのはとっても良いことです。異議なし!
職場や家庭で不機嫌をまき散らすのはとても迷惑です。特に、職場に不機嫌な人がいると「心理的安全性」が低下し、意見やアイデアが出にくくなり、生産性が下がります。
だから、「ゴキゲンであろう」。そこまでは悪いとは思わない。ただ、性別とセットで啓蒙するのはいかがなものか。もし、呼びかけるなら、「こんな大人は素敵」「私はこうありたい」と、主語を見直しませんか?という提案です。
「ゴキゲンな女」のプロ
冒頭に書いた「女の子はいつも笑顔でいないと」「女の子は気遣いで差をつけよう」「女の子は周りを褒めてあげて」といったフレーズ。これらをほぼ完璧にやっている人たちがいるとするならば、キャバクラ、クラブ、ラウンジ、ガールズバーなど、いわゆる夜のお店で働く人たちではと思います。
私の友人にもこれらのお店で働く/働いていた人がいます。そして、主に仕事関係の男性に連れられて、何度か客としてお邪魔したことがあります。もしや、無理やり連れて行かれたの?ひどくない?と、思うかもしれませんが、私は大喜びで行きました。だって、私がお酌をしたり、オーダーを訊いたりしなくて良くなるから。そう、働く人たちを目の当たりにして思うのは、気遣いが桁違いで、いてくれるととっても気が楽でハッピーになれるということ。私が気付くより前に動いてくれるので、私は何もしなくていいんです。プロの反応スピードはすごい。そして、彼女たちは、この気遣いというサービスを対価を得てやっています。
もし、社会がこのプロたちのような「ゴキゲンな女」でいることを一般女子に求めるとするならば、本来は対価を得て実行されるはずの労働を、無償で提供させようとしていることになります。一見ポジティブに聞こえる耳障りのいいフレーズでこれら労働を無償で提供しようと呼びかけることは、「無償キャバクラ」を女たちに求める社会を醸成することになりませんか。さっちーが許しても、あたしゃごめんだよ~
「ゴキゲンな女」と「ゴキゲンでもない女」を両方やると見える世界が違う
そんな私自身もミニシアター系の映画館で6年ほど接客業をやっていました。「ホスピタリティの鬼」をモットーに、お客さんと接していました。当時はゴキゲンでいることに対価をいただいていました。お腹が痛くても、お湯を沸かせそうなくらい怒りが沸点に達することを言われても、ゴキゲンでいました。それが仕事だから。オフの日もその延長線上で、ゴキゲンをやっていました。笑顔が顔面に残像として張り付いていたからです。自分がお客さんであるときも、笑顔で「ありがとうございます」とやっていました。オフにするスイッチがどこにあるのかわからん状態でした。
その後、転職して、オフィスワークの会社員になりました。残業が続いて体力がゼロの日が増えました。ゴキゲンなんてやっていられません。そこで「ゴキゲンでもない女」になる日が増えました。
「ゴキゲンでもない女」、だからと言って、不機嫌なわけではありません。「いいっす」「アッス」くらいは言うようにしています。好意も敵意もゼロ。寝癖がついたぼさぼさの頭で、スウェット姿のままコンビニに行く男子大学生のようなイメージでしょうか。
そうすると、男性、特におじさんの店員さんの中に、態度が明らかに変わる人がいます。歓迎されていないムードです。ラーメン屋さんなど、男性客が主体のお店だと、そういった店員さんの割合が多く感じました。(もちろん、全員ではなく、少数ですよ!)
これは私が女だからなのか?逆の立場だとどうだろう?と想像するときに使える手法に「ミラーリング」があります。逆のことばをあてはめてみて、非対称性があるか確かめる方法です。標語の「女は」「大人は」「外国人は」といったことばを、「男は」「子どもは」「日本人は」と、差し替えてみることです。
「私が女だからなのでは?」と、疑問に思ったときに、私は自分をマ・ドンソクに置き換えて考えます。
想像してみよう!「ゴキゲンなマ・ドンソク」と、「ゴキゲンでもないマ・ドンソク」。それでサービスや接し方に差をつけますか?不機嫌で攻撃をしてくるマ・ドンソクが店内にいたら、客の半分がチビッてしまうので、衛生面を考慮してお引き取り願いたいところですが、小声で「アッス」と言うマ・ドンソクに対して、ネガティブな感情を持つでしょうか?いや、持たないでしょう。マ・ドンソクはお礼を言ったら十分です。お礼の言い方にまでケチをつけないですよね。
私がこのような扱いを受けるのは、女だからです。「女はゴキゲンであるべきだ」「ゴキゲンでない女はけしからん」という思っている人がすでに少なからずいるからではないでしょうか。
また、このようなお店は「ゴキゲンな女」として入店した場合、ほかの男性客には訊かないのに「エプロンが必要か否か」をタメ口で確認してくる店員さんもいました。この人たちにとって、私は良くも悪くも、対等な「人間」ではなく「女」という別なカテゴリーに分類されるのでしょう。
ゴキゲンでないと対等に扱われない状況を再生産し続けるというのはどういうことか
日本ではいま産声をあげた赤ん坊が女だと、男として生まれた赤ん坊に比べ生涯年収が5,000万円ほど下がる世の中です。その後の努力にかかわらず、染色体によって割り当てられた性別で決まります(※トランスの方の賃金がどう変化するかについては、わかりません。どうなのでしょうか?)。染色体ガチャで「Y」を当てられなかったその赤ん坊が努力して、勉強するとどうなるか。日本では学力よりも性別の方が年収を決める因子として大きく、高学力の女性よりも低学力の男性の方が賃金が多い異様な環境です。最初のガチャで爆死したら、育成してもどうにもならんのです。
「ゴキゲンな女」が是であるという信仰を続けると、ただでさえ賃金を不当に低くされている上に、さらに「ゴキゲン」という無償の労働を追加することになります。追加でつけるのは、食後のコーヒーとか味玉とかだけにしておくれよ。
あなたが「ゴキゲンな大人」でありたいと考えて行動することは素晴らしいことです。私も不当な扱いを受けない限りは、アサーティブにいきたいと思っています(一方で、不当な扱いを受けたときの着火スピードは上げていきたい!)。
ただ、「女たるものはゴキゲンでいるべき」と思っているのなら、それは性差別です。声に出さずに、そっと胸にしまっておいて欲しいです。下の世代に重たい負のバトンを渡さないために。
もし、あなたがすでに社会からの呪いにかかっていて、疲れた体に鞭をうって「女なんだからゴキゲンでいなければ!」とがんばっているならば、そんなに無理しなくて大丈夫です。生きているだけで、偉いんだから。今朝、顔を洗った?偉い!寝る前にシャワーを浴びたら100点です。仕事の手を抜いてもOKだけど、歯は抜けたら困るから磨いてね。それで十分!