『最後の決闘裁判』はおじさんの社会リテラシーにドンピシャだった
『グラディエーター』から20余年、リドリー・スコットの時代感覚
あのリドリー・スコットの最新作が「有害な男らしさ(toxic masculinity)」をテーマにしているようだ、とSNSで見かけ、そのうち観ようと決意ししつつ、一旦忘れていた作品がありました。その後、日本のある巨匠のトンチキ評論を目にして「どういうことやねん??」と、疑問がわき、スペースキャット顔で劇場に駆け付けました。
私が観たのは大傑作『最後の決闘裁判』です。
まず、『最後の決闘裁判』作品紹介
あまり映画に詳しくない方のために少し説明すると、リドリー・スコットは御年83歳、イギリス出身の男性映画監督です。手がけた作品は『エイリアン』『ブレードランナー』と挙げ始めるとキリがなく、『グラディエーター』で第73回アカデミー賞作品賞を得ています。どんなジャンルでも撮れるまさに巨匠。彼の劇場最新作が『最後の決闘裁判』です。ストーリーは以下の通り。(公式サイトより)
中世フランス──騎士の妻マルグリットが、夫の旧友に乱暴されたと訴えるが、彼は無実を主張し、目撃者もいない。真実の行方は、夫と被告による生死を賭けた“決闘裁判”に委ねられる。それは、神による絶対的な裁き── 勝者は正義と栄光を手に入れ、敗者はたとえ決闘で命拾いしても罪人として死罪になる。そして、もしも夫が負ければ、マルグリットまでもが偽証の罪で火あぶりの刑を受けるのだ。 果たして、裁かれるべきは誰なのか?あなたが、 この裁判の証人となる。
物語は登場人物それぞれの視点によって、3章仕立てで構成されています。
第1章はジャン・ド・カルージュ(夫)、第2章はジャック・ル・グリ(夫の友人/レイプ加害者)、第3章はマルグリット・ド・カルージュ(妻/レイプ被害者)の視点です。
各章のはじまりに、文字で「第1章 ジャン・ド・カルージュ編」といった具合に教えてくれる親切設計です。
脚本は出演もしている盟友マット・デイモン&ベン・アフレックのコンビと脚本家のニコール・ホロフセナーが担当。それぞれ順に第1章、第2章、第3章を書いたあとで、3人で全体を調整しています。最初の2章は史実を綴った原作『決闘裁判 世界を変えた法廷スキャンダル』を基にしていますが、第3章は主に創作です。なぜなら、14世紀のフランスで女性の声は文献に残らなかったから(ガーン!)。被害者マルグリットの声は、ニコール・ホロフセナーが想像を巡らせ、代弁しています。
同じ時間軸の出来事をとらえているのに、それぞれに見えている世界が全く異なります。ベン・アフレックは「女性を人間ではなく、物として捉えていたから、見えているものが異なる」と、グサッとくる現実をオブラート0枚ではっきりと説明。
ただ、この作品は「まぁ人によって見えている世界がちゃうよね」とは片付けません。本作は第3章が始まるときのみ、これが真実であると明記します。
観客に委ねず、あえて、白々しく感じるほどにわかりやすさにこだわった工夫が随所に見られます。一体なぜなのでしょうか?
おったまげた日本の巨匠、原田眞人評
議論の余地がなく、「レイプです」と明示しているのに、内容を理解できず、レイプ犯に同情を寄せるおじさんが日本にいました。『燃えよ剣』『クライマーズハイ』などの映画監督の原田眞人です。彼がブログに書いた映画評の一部を引用します。
ジャックは下賤の生まれながらも不断の努力で知性と武力と男の色気に磨きをかけ、ピエール伯にも数多の女たちにも愛されている。マルグリットの知性と勇気もジャックとイコールであり、祝宴の席での出会いで二人はその情感を分かち合う。情を交わしたかのようなシーンも点描される。
レイプ犯と情を交わしたシーンなんてありませんでした。思わせぶりでもありませんでした。微笑んでいるマルグリットとジャックの目が合い、ジャックとマサトが「気があるのでは?」と、勘違いをした該当のシーンは、第3章で夫に微笑みかけていただけだとわかる仕掛けになっています。ジャックと違って、マサトは第3章を観ていたはずです。認知の歪みにゾッとします。
ほかにも自分が撮るのであれば、マルグリットにこう言わせるという趣旨の文章が続きました。レイプ被害者に対する「どうしてこうしなかった?」というヴィクティム・ブレーミング(victim blaming/被害者批判)に近いものがあり、気色悪さに鳥肌が止まらず、そのまま翼がはえて飛び立ちそうでした。いや、むしろマサトがいる日本から飛び立ちたい。怖い。フライアウェイしたい。
なぜ加害者視点の第2章が必要なのか
昨今、欧米では事件を報道する際に、加害者に焦点を当てることを避ける傾向があります。加害者のお気持ちなど知らんがな、それよりも被害者のストーリーに注目すべき、という理由です。
もし、私が『最後の決闘裁判』を公開日付近に観ていたら、レイプ犯視点での「彼にとっての真実」の章は不要だと感じたはず。知らんがな、と。でも、私は原田眞人評を読んでしまったあとに鑑賞したため、わかりやすくする必要性をビシバシと感じました。原田眞人ほど加害マインドだと、制作サイドの「わかりやすくつくるぞ!」という配慮からこぼれおちてしまうけれど、あの章があったからこそ理解できた人も多いでしょう。
もう一歩踏み込んだ議論をすると、第2章を本当の加害者視点で書く選択肢もあったと思います。性犯罪者は認知の歪みが強く、被害者が誘っていたり、喜んでいたりすると思い込んで犯行に及ぶ場合があります。きっとそんな選択肢も検討のテーブルに上がったはずです。しかし、そうは描かれませんでした。2度のレイプシーンはどちらも一切弁解の余地がない拒絶でした。それも正しかったと思います。それでも勘違いしてる人がいることに絶望しますが。
とにかく標準的なおじさんが社会を見る視点への解像度が異常に高く、バランス感覚に長けた映画だったと感じます。『釣りバカ日誌』並みに撮る人も書く人も出る人もほとんどがおじさんですが、決して背伸びはせずにおじさんの「社会リテラシー」を謙虚に捉えて、作品を構築した印象です。
子どもにとっての「アンパンマン」=「有毒な男らしさ」に染まった男性にとっては「決闘」
この作品のテーマは「有毒な男らしさ」。日本語では「有害な男らしさ」と訳す方が主流ですが、自分自身も毒されてしんどくなるニュアンスが含まれないので、私は直訳の方が実態に合っていると感じます。
昨今、ハリウッドではこの概念を作品のテーマにすることが流行っています。
耳馴染みのない方に向けて、念のためことばの説明を。
toxic masculinity(トキシック・マスキュラニティ/有毒な男らしさ)
男性はこうふるまうべきだとする考えのうち、有害だと捉えられるもの。
例:男性は泣くべきではない、弱みを認めるべきではないという考え。
例文:「男性は生まれつき暴力的だ」という考えは、有毒な男らしさの表明だ。
出典:Cambridge Dictionary
「有毒な男らしさ」に染まった人(※男性に限らない)が好きなのは、男のプライド、けんか、スポーツ、決闘でしょう。『最後の決闘裁判は』は、決闘のカタルシスが滾る名作『グラディエーター』でメガホンを執ったリドリー・スコットによる最新の決闘モノです。この作品はターゲットが好きなテーマを設定しています。子ども向けの市販薬にアンパンマンの絵を描くのと同じ仕掛けで、ターゲット層に合わせ、彼らが好きな「決闘」をパッケージを施しています。
それで何を見せられるかと言うと、「有毒な男らしさ」によって引き起こされる惨劇です。しかも決闘シーンはあえてダサくて痛々しくて、目を覆いたくなる仕上がりになっています。リドリー・スコットはかっこいい決闘シーンを撮れるのに、あえてダサダサに描いています。
届けたいターゲット層に向けたテーマ設定をし、ターゲットが理解できる解像度のストーリーを用いて、メッセージをわかりやすく説く時代感覚にくらくらしました。
2029年、あるいは2030年に2020年代の映画を振り返る時期が来るでしょう。この作品のことを思い出し、「いまなら第2章がなくても観客は理解できるのに、あの頃は2回もレイプシーンを観なきゃいけなかったね」と、回顧できるような時代になっていてほしいです。『最後の決闘裁判』はその一助となる作品のはず。ありがとう、リドリー・スコット。
肩の力がガクッと落ちる後日談:興行成績が期待外れだった理由を、リドリー・スコットが「ミレニアル世代がスマホのいうことしか信じへんからや!」と嘆いたとの報道がありました。いや、ミレニアルはただの決闘なんて、もう観ないよ!おじさん向けに撮って、おじさんが観るようにあえてテーマを明言しなかったわけじゃなかったようです。
おじさんの気持ちはめっちゃわかるけど、ミレニアル世代のことはわからないおじさんだったようです。まあ、みんなそんなもんか!


